勝間田の池(資料提供 海神6丁目 佐川一元さん)
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勝間田の池附近の図(現西船五丁目勝間田公園)
江戸名所図会(天保年間刊、1833年頃)に画かれた勝間田の池は現在西船五丁目の国道14号線沿いにある勝間田公園の周辺の風景である。池に沿って人馬の往来する街道はいまの国道14号線、画面左のお宮は、現葛飾神社で、右手の人家は西船四丁目の集落にあたる。「勝間田の池は吾れ知れ蓮なし、しか言ふ君が鬚なしごとし」(万葉集巻十六)「東方に春日山を望むこの池の眺めを、ここを通った江戸時代の文人達が万葉の名勝、勝間田の池に擬したのであろう。わが街の昔の姿を伝える貴重な図と云える。」(元船橋市史談会副会長 佐久間象三さん)
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江戸名所図絵にこの勝間田の池の図が掲載されているのが、郷土の誇りになった。「栗原本郷村の地にあり、故に本郷の溜池と名づく」という説明文が絵の上部にある。これが平安時代以来の船橋市内最古の、由緒正しい地名だそうである。そしてまた万葉集の一首が添えられているため、史蹟としても騒がれている。土地の人の愛着の深さを語る例を挙げれば、地元の町会事務所にはこの絵が大きな額に入れられて正面に掲げられ、船橋南ロータリークラブではビジターカードに使っているばかりではなく、「クラブ運営概要と活動方針」など重要な印刷物の表紙には必らずこの絵を掲げている。この絵は地元の顔といっていいだろう。勝間田の池は永年、千葉街道の横に池のまま残っていた。昔は人馬の往来街道だったのが自動車の疾走する国道となり、汚れ果ててドブ池のようにみじめではあったが、池に中島もあり、橋もかかり、柳が枝を垂れているのは風情もあった。いまではその風情すらなくなり、埋め立てられて痕跡のみ残る。しかし郷土の歴史としては第一に取り上げなければならない場所であり、調べてみることにした。
先ず万葉集の古歌である。この古歌があるため後世まで歌枕としての地名をとどめたのである。ところがこの歌を読んだだけでは何の意味かわからない。江戸時代の寛政期に書かれた加藤千蔭の名著「万葉集略解」をひらいてみた。万葉集巻第十六にあるこの歌の原文は次のようになっている。勝間田之。池者我知。蓮無。然言君之。鬚無如之。かつまたの。いけはわれしる。はちすなし。しかいふきみが。ひげなきがごとし。これはある婦人が新田部親王におくった歌だそうである。大体の意味は、新田部親王が出かけて勝間田の池をみて、そのすぐれた景色に感動され、帰ってから某婦人に向かって、勝間田の池を見てきたが、水もひろびろしていたし、蓮の花がきれいに開いていたし、まことに素晴らしい眺めだった。というようなことを言われたらしい。それを聞いた某婦人が答えた戯れ歌(ざれうた)なのだそうだ。その意味を理解するには、この新田部親王という人が大変ひげの多い人だったということを知らなくてはならない。勝間田の池には実際は蓮の花が多かった。それを蓮の花なんかない、あなたにひげがないのと同じだと逆説的に答えた、ユーモラスな会話である。だから「勝間田の池のことは私よく知っていますわ。蓮の花なんか咲いていませんよ。そう言うあなたにおひげがないのと同じですよ」とでも訳すことができよう。この歌の作者は夫人とあるだけで、名は書かれていない。新田部親王との関係もわからない。しかし万葉人の優雅な心境と、ほほえましい雰囲気が偲ばれる。そして同時に、いにしえの勝間田の池の、ひろびろとした水面に蓮の花をいっぺんにうかべた光景が目に見えるようである。これで万葉集の古歌の意味はよくわかった。そこで勝間田の池について古い資料をいろいろ調べてみた。
千葉県の郷土資料集「房総叢書」をひらくと、古来歌まくらとして知られていたらしく、この池についての古歌が沢山載せられている。「葛飾記」や「下総名勝図絵」などには、万葉集のほか千載集、後拾遺、新拾遺、夫木抄、その他の歌集からも引かれているが、西行法師の歌は水なしと聞きてふりにし勝間田の池にあらたむるさみだれの頃というのである。万葉時代はともかく、昔からあまり水はなかったらしく、「水なしと見えて」「水なきみはらにて」「水もなし」「水も名のみなりけり」というような歌が多い。ここから昔。日蓮上人が仏法のために房州より来て、この地で舟に乗ったとか、またここから渡し舟があって、鎌倉に出勤する武士が乗った、と書いている資料もある。
ところが勝間田の池というのはここばかりではなく、諸説もあるらしい。だから万葉集にある勝間田の池はどこかということが問題になる。資料によれば大和国生駒説あり、清輔奥儀抄や歌枕名寄では美作国説であり、八雲御抄や名寄和歌集では下総国説だそうである。その下総国説にも二説あるのである。この栗原本郷の溜池を勝間田の池だとはっきり書いてあるのと、印旛郡下勝田村(佐倉の東)にもあるからそっちだという説もある。「けだし諸国同名の地無きにもあらず」と資料にもある。同じ地名というのはあっちこっちにあるのだから、万葉の史蹟がここかどうかは疑点があるにしても、ここが勝間田の池とよばれ、ここで歌が多く詠まれたことは事実であり、郷土の史蹟には違いない。そこで郷土の資料を若干紹介しよう。大体が古文で書いてあるので読みやすく書きかえたことをおことわりしておく。
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「葛飾記」(寛政二年、1749年)
勝間田の池(中山より東巽の方)
これ本郷村の内なり。俗に本郷の溜池という。池を越ゆれば寺内村という。舟橋海辺の端、この堤を往行するなり。池の中、定杭あり。常に水なし。北の方一筋の堰水なり。中空原にして濶し。圦桶あり。池の上の高きところ、熊野三社権現の社あり。能き景地なるところなり。(以下、歌と詩を載せる。略)
「葛飾誌略」(文化七年、1810年)
勝間田の池。当初(本郷村)の池をいう。この池は下総の名所にも出でて古き所なり。この流下に二間田(ふたまた)という所あり。八雲御抄に「かつまたの池ははちすなし」と。また万葉集にもありと詠めり。詞林采葉抄に「かつまたの池は今水なし」。云々。
「下総名勝図絵」(弘化二年、1845年)
勝間田の池
栗原本郷村にある池をいう。勝間田の池を清輔奥儀抄に美作国とす。けだし、諸国同名の地無きにしもあらず。名所和歌集には下総とす。下総の内に印旛郡下勝田村にもあり。この池は水は絶えてなし。西行の歌に「水なしと聞きてふりにし勝間田の池あらたむる五月雨の頃」など詠まれしたぐい、水の無き心を詠める歌多し。また、勝間田は勝田村に近き地名なるをも思うべし。
「觀海漫録」(明治四年、1871年)
(小川泰堂の房総旅行記で、明治四年四月八日、行徳から船橋に来て宿したところを揚げる)午の貝吹くころ行徳に船つく。若松とかいう茶店に昼食して、ここを立ち出ず。鬼越という里にかかり、中山法華経寺に参詣し、二子(ふたご)に至る。この辺むかしは山根まで浪打寄せて二子の浦といいしとぞ。左に勝間田の池あり。ここは栗原本郷の地とて、ところの人は本郷の溜池とよぶ。万葉集をはじめ撰集に古詠多し。かつまたの池の玉藻のたまさかにむかしの影を見るよしもがな海神という村を過ぎて船橋宿に至る。市場にていと賑わし。橋を渡りて、右上總街道左成田道の追分の正面に、大神宮立たせ給う。本社南面なり。祭神天照大神・豊受大神の二座、左右に春日・八幡を合殿とす。延喜式内意富比神社にして、関東一之宮と崇む。日本武尊東征の時、御勸請ありて、今にその神鏡を神体とすといえり。かかる霊社なるが、いぬる辰年閠四月三日、脱走の浪士等ここに屯集せしを、官軍の討手向い、しばし争戦の地となり、官居残らず炎上して渺茫たる焼けあとを見るのみ。本社も微小の仮殿にて、いとあさまし。今宵はこの里に宿らんとて、佐渡屋勘兵衛の方に至る。東京より水陸行程六里と聞けり。
「日本地理志料」(明治三十六年、1903年)
本郷村に惣社あり。俗に葛飾明神と称す。諸国府の近く必ず惣社あり。およそ州内の官社に事あれば、国守これにゆきて親祭すという。祠南に古池あり。勝間田の池という。八雲御抄・名寄和歌集に下総にありとなすは、けだしこれなり。
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千葉県と東京を結ぶ大動脈、国道14号線のかたわらに、勝間田の池は長い歴史をねむり続けてきた。水の無い池から平和な公園に変貌し、子供達の遊ぶ姿も見られた時もあったが、今では昔を偲ぶよすがもない。しかし古資料にのこる勝間田の池は、郷土の人の胸に今も蓮の花を開いている。

